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蒟蒻問答 - 僕らの歳時記

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蒟蒻問答

「古典落語 蒟蒻問答」

江戸を追われた道楽者の八五郎は、上州安中のこんにゃく屋を営む六兵衛の世話で、禅寺の和尚となった。

毎日酒ばかり飲んでいた和尚八五郎であったが、ある日、諸国行脚の越前永平寺の沙弥托善という雲水が来て、禅問答を申し込んできた。八五郎が困りはてているところに、こんにゃく屋の六兵衛がやってきた。相談にのった六兵衛は、八五郎に代わって問答を引き受ける。

次の日、六兵衛は寺の大和尚になりすまし、やってきた禅僧托善に何を言われてもひたすら黙っていた。これは「無言の行」だと勝手に思い込んだ托善は、身振りのみで問う。二人は、身振りだけで禅問答をすることとなる。

托善は、自分の胸の前に指で小さな輪を作り前に突き出すと、住職になりすました六兵衛は、一瞬ぎょっとして、両手で大きな輪をこしらえる。托善は、驚いて平伏します。次に托善は、十本の指を突き出すと、六兵衛は五本の指を突き返す。またも托善は、平伏します。

托善は、必死の形相で三本の指を出すと、六兵衛は、右の人さし指を目の下へ持っていって舌をだした。托善は、「到底、拙僧のおよぶところではございません」と退散した。様子を見ていて意味の分からない八五郎は、托善を呼び止め訳を聞いた。

『和尚は無言の行の最中と察し、無言には無言にて問わんと、まず、胸の前に小さな輪を作り「大和尚の胸中はいかに?」と尋ねると、「大海の如し」とのお答え。誠にもって恐れ入った次第。続いて、「十方世界は?」と問うと、「五戒で保つ」とのお答え。およばずながらもう一問と存じ、「三尊の弥陀は?」との問いに、「目の下にあり」と。誠にもって愚僧など遠くおよび申しませぬ。今一度修業して出直して参ります。』と走り去った。

感心した八五郎は、和尚になりすましたこんにゃく屋の六兵衛の所へ行くと、六兵衛がカンカンに怒っている。

八五郎がどうしたかと聞くと、『あいつは、俺がこんにゃく屋だと気づきやがったとみえて、まず小さい丸を作って、「お前の所のこんにゃくは、こんなに小さいだろう」というから、「こんなに大きい」って言ってやったんだ。そうしたら、「10丁でいくらだ」って言うから「5百文だ」と言うと、しみったれた坊主で、「3百文にまけろ」と値切ったから、アッカンベをしてやった。』

束縛にとらわれない無の境地

托善は、「身振り」を仏教に関する知識の中で解釈し、六兵衛は商売のこんにゃく屋に関する知識の中で解釈しています。同一の「身振り」に対して、異なった2つの問答の内容が存在していることに気づきません。托善の解釈も、六兵衛の解釈も決して誤りではなく、2人にとってその解釈は正しいのです。この異なった解釈世界を持った2人の接点は、「身振り」。2人の身振りが、偶然に、決して交わることのない異なった解釈世界を、危うくも接合させたということに、この「蒟蒻問答」の滑稽味があるのでしょう。このようなことは、大なり小なり現実にあると思いませんカ。

コミュニケーションの場でやりとりされるのは、その人の解釈、理解の度合い。1つのものを見ても、その人のそれまでの経験、知識、思い込みによって、解釈が違ってしまいます。

また、それだけではなく、私たちは色んなものにとらわれていて、社会通念という基準や価値観、「〜すべき」とか「よい、わるい」など、自分自身の作り出す束縛に縛られ、考え方をゆがめていることがあります。

哲学者の内田 樹さんは、次のように言っています。「世界の深さは、すべては世界を読む人の深さにかかっている。浅く読む人間の目には浅く見え、深く読む人間の目には世界は深く見えるのです。」

だから、視野を広く、認識力を広げるために色んな経験が大切ですし、様々な束縛にとらわれない無の境地が必要なんですね。

参考文献等

  • 「逆立ち日本論」養老孟司 内田 樹 新潮社
  • 「現代民俗学の視点 第2巻 民俗のことば」関 一敏編集 朝倉書店

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最終更新時間:2007年10月04日 11時11分54秒

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