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忠臣蔵 - 僕らの歳時記

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忠臣蔵

時は元禄15年(1702年)12月14日。場所は両国松坂町、回向院裏の「吉良邸」。早朝4時、殿様の仇討ちのため播州赤穂浅野家の浪士47名が吉良上野介の屋敷に討ち入り、その首級を挙げたというのが「忠臣蔵」お話です。 この仇討ちの裏に、越前府中(福井県越前市)の本多家が深く関わっていたそうです。越前府中・本多家は、越前松平藩の筆頭家老で、付家老職(幕府が直接任命した家老)という徳川幕府派遣の目付け役の存在だったそうです。

この本多家の江戸屋敷が、吉良上野介の屋敷の東隣だったのです。本多家は、この討ち入りを目撃しただけではなく、この事件に深く関わっていたというのです。家臣が見聞きしたことを書き残したという「赤城義臣伝」が本多家に伝わっているといいます。元禄年間の殿様、本多孫太郎長員(ながかず)の家臣に日置流弓術の達人、滝当左衛門という人が江戸詰めで神田に道場を開いていました。そこで門人だったのが、赤穂浪士の一人、堀部弥兵衛金丸。滝の紹介で、本多家家臣、忠見元右衛門の長女を嫁に迎えました。そして、のちには有名な養子の堀部安兵衛武庸(たけつね)も忠見家に出入りし、親子二代のつながりができたのです。

講談では、岡野金右衛門が大工の娘と親しくなり吉良邸の図面を盗み出したということになっていますが、実は、堀部親子が、吉良邸の隣の本多屋敷の中にある忠見家を通じて手に入れたのが真相らしいのです。本多家は、浪士に協力して同家にあった高さ10メートルの火の見やぐらから偵察することも許したといい、邸内の様子も想像以上に細かく調べあげていたようです。

また、討ち入り時は、本多家は塀の上に高々と高張提灯を立て並べ、討ち入りを援助したのは有名な話です。この時、堀部安兵衛武庸から、本多家江戸詰め家臣、真柄勘太夫に記念の文書と物品が贈られているということです。江戸の落首に

「本多から高張りちょうちん出したから 真柄が手柄 ほんに家柄」

と歌われ、江戸っ子は、「手柄」との語呂合わせで本多家の協力を絶賛したということです。

翌日、真柄勘太夫は、幕府への事情報告で「昨夜七つ時(午前四時)前、物騒がしいので出て見ると、吉良左兵衛殿屋敷が騒がしく火事でもあったのか、様子はわからないが、そのうち鳴りも静まった」と、知らない顔で報告しているのです。

そのほかにも、幕府と本多家が仕組んで、わざと替え玉の吉良上野介を討たせ、本物を逃がしたという伝説もあるようですが、「忠臣蔵」に、越前府中(福井県越前市)の本多家が関わっていたこと、あまり知られていない事実のようです。

参考文献

  • 「福井の意外史」読売新聞福井支局編 S50.11.20発行

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最終更新時間:2007年12月13日 21時30分55秒

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